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風の谷のナウシカと社会共通資本


先日、映画館で「風の谷のナウシカ」を観た。いま私たちが直面しているコロナ危機と、この映画のストーリーとを重ねながら、これからの社会を考えてみたかったからだ。

風の谷のナウシカには漫画版があり、実は映画版はそれの半分も描かれていない。ただ、そう言ってる私も、漫画版については全部を読んでおらず、断片的にしか内容を知らないのだが、以降はその両方を踏まえて書いてみたいと思う。

この作品に出てくる「腐海」と呼ばれる森。これは巨大な菌類(腐海植物)の森で、マスク無しで立ち入ると5分で肺が腐ってしまうほどの瘴気が漂っている。

しかしすべての生き物や自然を愛する心を持ったナウシカは、以前からその腐海の胞子を集め、自分の城の地下にそれらを持ち込み研究をしていた。そして、綺麗な水や土で育てれば瘴気を出さないことを知る。実際に腐海の下層部に落下した時も、大気が清浄であることを確認し、実は腐海は、汚染された世界を浄化しているのだということに気づく。

この腐海というのは、漫画版では、「旧人類が世界を浄化するために人工的に作ったもの」とされている。そして旧人類は、腐海によって世界を完全に浄化した後、絶滅した動植物や科学文明勃興以前の文化を復活させるとともに、穏やかで賢い新人類をこの世に生み出し、世界を再建しようとしていたのだという。

これらのストーリーを、いま起きているコロナ危機に当てはめて解釈すれば、誰かがコロナによってたくさんの人々を犠牲にしながら、世界を浄化(たとえば世界経済をリセット)させようとしているということになるが、陰謀論のような話になってきてしまうので、これ以上の言及は避けようと思う。

いずれにしても、私はコロナという病気は、現代社会の歪みが生み出したものだと思う。発生源は武漢なのかも知れないが、原因は武漢にあるというよりは、そういう事態を引き起こさざるを得ない状況を作った現代社会が原因と考えるべきだと私は思う。

ではこの社会をどのように変えていけば、今回のような危機を防ぐことができるのか──。とても難しい問題だ。

ちょうどそう思っているときに、宇沢弘文さんという人の「社会共通資本」という思想と出会った。

この思想は、市場経済が深く浸透する社会で、「人間」や「社会」はどうあるべきかという課題意識から生まれたものだという。

古典的な経済学では、もともと自然環境はいわゆる自由財として、誰でも対価を支払わず自由に使用できるものとされた。経済活動の水準が低い頃はそれで問題がなかったのだが、各国の経済活動が活発になるにつれ、大きなほころびが出てきた。

そこで宇沢さんは、以下の3つの資本を社会的共通資本とし、それらは市場原理主義が及ぶべきではないと考えた。

1つ目は、大気、河川、海洋、森林などの「自然資本」
2つ目は、道路、公共交通機関、上下水道、電力などの「社会資本」
3つ目は、病院、学校教育、医療、金融、司法、行政などの「制度資本」

私はこの宇沢さんの思想を極めて素直に受け入れることができる。なぜかというと私は以前から西洋と東洋の違いからそれを感じていたからだ。

これはとても自覚しにくいことなのだが、西洋では「人間の周りに自然がある」という考え方が根底にあり、東洋には「自然の中に人間がある」という考え方が根底にある。

なので日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化して存在している。

しかし西洋ではそれが逆で、個は自然環境を自分の幸福のために好き勝手に使っていいという考え方がある。それどころか自然環境を征服すべき対象として見ているところがある。

実際、1980年代にアメリカのミルトン・フリードマンらが唱えた「新自由主義」は、世界に広く普及し今もなお、私たちの社会に根付いているが、この思想は、大気や海の水までも私有制が導入され、徹底した市場メカニズムにまかされている。したがって、前述の社会的共通資本は根源から否定されてしまっているのだ。

したがって、どうしても自然環境への感謝と配慮を怠ってしまい、結果、その維持費以上の莫大な損失を生み出してしまっている。

だからこそこれからは、「人間の周りに自然がある」のではなく、「自然の中に人間がある」という感覚が必要だ。一見なんでもないようなことだが、これは大きな違いである。

人間の周りに自然があるという考え方は、自然を征服すべき対象と捉えやすい。でも、自然の中に人間があるという考え方なら、人間と自然は一体であると捉えることができる。

私は、そのことを本当に良く知っているのはチームラボの猪子さんだと思う。
https://www.teamlab.art/jp/concept/ultrasubjective-space/

以下引用────

世界の見え方と世界に対するふるまいとの間には関係があり、人々の世界の見え方が、人々の世界に対するふるまいに大きな影響を与えている可能性があると考えている。

写真のように世界を見ているときは、見えている世界の中の人になりきったり、見えている世界の中に自分がいたりすることはできない。

現代の人々は、写真や実写の映像などレンズで切り取った世界を常に見ているため、人々は、写真のように世界が見えている可能性がある。人々がレンズのように世界を見るならば、自分と、自分が見えている世界が完全に切り分かれ、はっきりとした境界ができ、自分が見えている世界に自分は存在できない。それゆえに、人々は世界を、自分がいる場所とは違う世界であるかのようにふるまってしまうのではないだろうか。

「超主観空間」で世界を見るならば、自分が見えている世界と、見えている世界の中にいる人が見えている世界はほとんど変わらないことになる。つまり、自分が見えている世界の中にいる人になりきることが容易だったり、自分が見えている世界の中に自分がいるかのような感覚を感じやすかったりするということだ。自分と世界との境界が曖昧になり、自分が世界の一部であるかのような認識をするかもしれないのだ。

────────

猪子さんの言っていることを私なりに解釈すると、西洋では自分と自分以外を完全に切り分けて空間を認識し、日本人は「超主観空間」といって、空間の中に自分自身を含めて認識している。

だから西洋では、自然を征服すべき対象と捉えがちになり、日本人は、自然は神であり人間はその一部として一体化して存在していると捉えるのだ。

これは、言い方を変えれば、「自分」の定義が異なる。西洋における「自分」とは皮膚の内側であり、日本人における「自分」は、その境界線が曖昧で、もっと範囲が広いのである。

私はそうした日本人の感覚は、宇宙の成り立ちをよく反映しているように思う。

この宇宙は何もないところから作られた。何もない宇宙から銀河が生まれ、銀河から太陽系が生まれ、太陽系から地球が生まれ、地球から人間が生まれた。一本の木が根っこから幹、枝、葉、花、実、種というように育っていくのと同じようにこの宇宙は進化発展してきたのだ。

だから、個というのは背景から成り立っている。人間は自然環境を背景としてその中に存在するし、自然環境なしに人間は存在することができないのだ。

もっと言えば、この宇宙はそれ全体が「ひとつ」の生命体である。150億年もの歳月をかけ、その「ひとつ」を根っことして無数の枝葉に分かれるように進化発展しながら人類という高度生命体を生み出した。

般若心経には以下の一節がある。
「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識」

これを訳すると、『シャーリプトラよ。すべてのもの、あらゆる事象は、実体をもたない「空(くう)」である。生まれること死ぬこともない。汚いもきれいもない。増えたりも減ったりもしない。これゆえに、空そのものになることができれば、あらゆるものへの執着や、とらわれることのない生き方ができる。』となる。

宮崎駿監督はそのことを知っていたのではないか。宇宙全体が一つの生命体=空であることを。何もないところ=空からすべてが生まれたことを。清浄も汚濁もない。生も死もない。ひとつそのものであるということを。

だからこそ最後のシーンでナウシカは、「清浄のみを追求し一切の汚濁を認めない」という旧人類の計画を真っ向から否定したのだ。「苦しみや悲しみ、そして死も人間の一部であることを受け入れ、汚濁と共に生きてゆくこと」。そういう生き方をナウシカは選択したのだ。

そうしたナウシカの世界観、釈迦の世界観を、宇沢さんの「社会的共通資本」という思想は、見事にそのまま現実社会に適用できる思想だと私は思う。

宇沢さんが社会的共通資本を着想したのは50年も前であるから、この思想は古いと思うかもしれない。しかしそうではなく、世界が遅れているという解釈のほうが正しい。それは、近年国連が唱えるSDGs(持続可能な開発目標)、投資家の行動を変えつつあるESG(環境・社会・企業統治)投資、深刻化する地球温暖化問題などをみれば明らかだろう。

だから宇沢さんの社会的共通資本主義は、現代にとって古くも新しい資本主義と社会主義の進化版とも言えるのである。

ところで宮崎駿監督は、漫画版の「風の谷のナウシカ」全7巻を執筆中、第6巻の終わりぐらに差し掛かった時、「東側」とか「共産圏」といわれた社会主義・共産主義の国々が次々に崩壊していったという。そのことによって22ヶ月にもわたり連載がストップしたそうだ。宮崎駿監督を含め、マルクス主義に希望を持っていた人は、混乱したのだろう。どのような社会のあり方が自然との調和をもたらすのか、その方法を模索していたのだと思う。

宇沢さんの思想ならば、市場原理により人類文明の発展を促しつつ、社会的共通資本については利潤追求の対象として取引しないことで、自然を大切にしながら人類が進化していくことができる。これは、宇宙全体が一つの生命体として成長していくという、宇宙の成り立ち通りの発展の仕方である。

そして我々人類が宇宙と一体化し、ひとつの生命体として発展できるということは、私たち一人ひとりの他者に対する思いも変わってくる。自分とは別のものではなく、自分と同じ存在になる。利他愛を持つことができなかった人も、利己=利他、つまりすべてが利己となることで、平和が実現しやすい社会へと変わっていく。

世界を混乱させてているコロナ。そのコロナが本当に終息するには、世界のすべての国において終息しなければならない。たとえ一国でも感染が広がっていれば、それが全人類に影響を及ぼすからだ。バタフライエフェクトではないが、たった一人の咳やくしゃみが、全世界に影響を及ぼしてしまう。

だからこそこのコロナ危機では、人や国のあいだの境界線を突破し、対立を超えて、ひとつに繋がった人類にならなければならない。そのためには、「自然の中に人間がある」という世界観に立って社会を築いていくこと。宇宙の成り立ち通りに社会を築いていくこと。それが大切だと私は思う。


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