存在とは何か
人間は認識したものに意味や価値をつけることで対象を存在させています。例えばむかつく人がいたとして、殆どの人は「むかつくお前が存在するから私がむかついている」と思い込んでいるでしょう。しかし本当はそうではありません。「私がお前をむかつく奴だと認識するから、むかつくお前を存在させている」のです。
逆に素晴らしい人がいたとして、殆どの人は「素晴らしいあなたが存在するから私が素晴らしいと感じている」と思い込んでいます。しかし本当は、「私があなたを素晴らしい人だと認識するから、素晴らしいあなたを存在させている」のです。
つまり、人間は自ら作り出した存在に勝手にむかついたり、素晴らしいと感じています。だから客観などありません。主観しかないのです。主観しかないから、むかつく奴でも自分に良いことをしてくれたらコロッと素晴らしい人に変わったりします。もし客観的にむかつく人がいるならば、全人類の誰から見てもむかつ人でなければならないし、それどころか宇宙人から見てもむかつく人でなければならないということになってしまいます。
これまでの科学では当たり前に「存在するから認識する」しか認めていませんでした。でもこれからは「認識するから存在する」という視点を取り入れる必要がある。コインの裏表の関係のように、その両方があってはじめて「存在」と言えるからです。
もう少し理解を深めてもらうために話を続けてみたいと思います。たとえばAという人物を物質として見た場合、その人物Aはこの世界に一人しかいません。しかし、意識として見ると、その人物Aは認識機能を持った生命体の数だけ無数にいることになります。先ほど、「存在するから認識する」と「認識するから存在する」は、コインの裏表の関係であると述べたのと同じように、存在とは、物質と意識の両面があって初めて成立します。それは表裏一体であり、決して切り離すことのできない関係です。
しかし現代の科学では、物質としての人物Aしか認めていません。もし、「意識としての人物A」=「認識するから存在する」という視点も取り入ることができれば、私はパラダイムシフトが起きると思っています。量子力学も難解さがかなり解消されるでしょうし、万物の理論(統一場理論)の完成にも一気に近づけることができるでしょう。
というのは、量子力学において物質は観察する前は波動であり、観察したら粒子になるとしていますが、その粒子化は、意識の中で起きていることなのです。それを意識の外側で起きていると考えているから難解で不可思議なのです。私たちは、五感覚に入ってきた情報を脳で処理した結果を見ているのであって、真実を見ているわけではないのです。
さきほど、「人物Aは認識機能を持った生命体の数だけ無数にいる」と述べましたが、これをもう少し詳しく説明したいと思います。
たとえば人物Bの主観においてむかつく人物Aがいたとして、「むかつく人物であるA」というのは人物Bの中にしか存在しません。人物B以外の人間が認識する人物Aは、「素晴らしい人物であるA」かも知れないし、「超むかつく人物であるA」かも知れない。いずれにせよ、人物Bと全く同じ認識を持つ他の人間はいるわけがないのですから。
つまり、「むかつく人物であるA」も「素晴らしい人物であるA」もその他も、全て人物Aの中に「重ね合わせ」の状態で存在しています。人物Bが「むかつく人物であるA」を観測したことによって、初めてこの世界に「人物Bの中にある“むかつく人物であるA”」という存在が生まれるわけです。これは量子力学で言うところの「観測すると状態が確定する」というふるまいと同じです。
また、ここで重要なことは、「人物A」と「人物Bが認識する人物A」は全くの別物だということです。この二つの存在は密接に関係していますが、イコールで結ばれることはない。人物Bは「本当の人物A」にむかついているのではなく、人物Bが認識する人物Aにむかついているのだということです。人物Bは本当の人物Aを認識することができないのです。
では、本当の人物Aの存在はどこにあるのか。つまり、「人物Bが認識する人物A」ではなく本当の「人物A」はどこにあるのか。それは人物Aが自身の中にその存在を作り出しています。人物Aが自分自身をどう認識するかで確定します。ここでも客観などなく主観しかないということを理解頂けましたでしょうか。「自分をどう認識するか」というのはアイデンティティであり、それが変われば、自分が全く異なる自分になるわけです。
さて、ここまで理解が進むと、人間は完全に相手を理解することは不可能、ということに気づくはずです。これは多くの人が何となく知っていることだとは思いますが、何となく知っているのと、「存在は自分の中にしかいない」ということを理解した上で知っているのでは、次元が大きく異なります。
完全なる相互理解が不可能というのは、一見さみしいことではあります。しかし、逆にそのことを知っていることが、人間関係を良好にすると私は思います。というのは、もし完全なる相互理解ができると思い込んでいれば、自分の見ている世界と、相手が見ている世界は全く同じであると思ってしまい、その結果、相手の考えが自分の考えと違ったときに、「バカじゃないの!?」「信じられない!?」とか思ったりしてしまうからです。
でも、相互理解は不可能ということを知っていれば、相手の考えを尊重することができる。むしろ、相互理解が不可能であることに感動さえ覚えるときがある。なぜなら、それが不可能であるからこそ、私たちは生きている実感を得られているからです。それがこの宇宙の目的でもあると言えるのではないでしょうか。
ところで、こういったことを知ると、すべての悩みから解放される気持ちになりませんか。宇宙もあらゆる人間関係も、そして自分すらも、すべて自分が作っているからです。私たちは、自分の思った通りの世界を自ら作ることができるのです。