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理性と感性、二極化する世界

私は日頃、自分の感じていることを文章にする習慣があり、それを社内では頻繁に共有しているのだが、オープンな場に投稿するのは、最近ではすっかり怖くなってしまった。誰かと会話するときも、この人にどこまで自分の感じていることを言っていいのか、感触を探りながら話すようになってしまった。

というのは、今の世の中を私の目で見渡してみると、あまりに「きな臭い」ことばかりで、これほどまでにそれを強く感じるのは、自分の人生の中では初めてのことだ。具体的に何がきな臭いのかを語りたいところだが、とても言いにくい雰囲気がある。その雰囲気も、これほどまでに強く感じるのは初めてのことだ。どんなに真面目に語ったとしても、逆に陰謀論者というレッテルを貼られかねないという危険を感じてしまう。そして実はこれが世界を二極化させている原因にもなっている。

私は決して陰謀論者ではなく、情報を曲解したり一部だけを切り抜いたりしたような解釈の仕方はしていない。たとえばワクチンはマイクロチップが含まれているとか、5Gがコロナ感染を引き寄せるとか、そういうトンデモ発言をしたいわけではない。

しかし現実にはそれ以上にトンデモない事態がたくさん起きていて、私はそれを嘆いているのだが、不思議に思うのは、きな臭いとさえ感じていない人が意外と多いということだ。あまりに多いものだから、もしかしたら自分のほうがおかしいのかと思ったりもする。

ただ、多くの人たちが、エビデンスさえきちんと揃っていれば、直感的におかしなことであっても、すんなり受け入れてしまっているとすれば、それはとても危険なことだと思う。

私にとってエビデンスとは、強い説得力がある一方で、無条件に信頼を置くべきではないという認識がある。悪用することができてしまうからだ。一般的に、「結論」というものは、エビデンスを集めて解析した結果であると捉えられているかもしれないが、私は必ずしもそうではないと思う。つまり、自分の主張したい結論がまず先にあって、それに合わせて都合の良いエビデンスを集める。こういうパターンはたくさんあるのだ。だからエビデンスというものに無条件に信頼を置いていると、悪意を持った人からは騙されてしまう可能性がある。

たとえば、牛乳は健康に良いというエビデンスはいくらでも作れるし、逆に健康に悪いというエビデンスもいくらでも作れる。朝食は摂ったほうが良いというエビデンスはいくらでも作れるし、摂らないほうが良いというエビデンスも作れる。もっと言えば、戦争をしてもよいというエビデンスはいくらでも作れるし、戦争はしてはいけないというエビデンスもいくらでも作れる。

エビデンスだけで判断しないようにするためには、私は感性とか直感を働かせるしかないと思う。直感というと「いい加減」というイメージを持っている人も多いかもしれない。だが、隙間だらけのロジックに頼ることの方が、よほどいい加減なのだ。直感は数値化できないにせよ、実に膨大な情報量をもとに生まれた感覚であり、それは決していい加減ではなく、むしろその隙間を埋めてくれるような、優れたものであると思う。

隙間だらけのロジックと書いたが、エビデンスというものがどうしてそうなってしまうのか、その理由を自分なりに書いてみたいと思う。私に言わせれば、すべての存在は有機的に繋がっていて、どれ一つとして分離していない。たとえば夜空を眺めたときに、無数にある星のうちの、わずか1つが無かっただけで、地球は今ある姿とは異なっていたはずだし、私という存在だって無かったのだと思う。私という存在が誕生するためには、人類が誕生していなければならないし、人類が誕生するためには、地球が誕生していなければならないし、地球が誕生するためには、宇宙が誕生していなければならない。したがって、宇宙と私は決して切り離して考えることはできないというのが私の当たり前すぎる考え方だ。だから星占いとかスピリチュアルな話というのは、丸ごと鵜呑みにしないにしても、決して馬鹿にできないという感覚を持っている。

一方、エビデンス(=科学的根拠)というものは、その繋がりを無視したものと言える。というよりも無視せざるを得ない。そのようなものは数値化できないからだ。実際、これまでの科学は、そうした目に見えないものは無視するか単純な数値として扱ってきた。その代わりに、事象を細かく分割し、それぞれの理論を作ることで問題を回避してきたのである。しかし、たとえば量子力学と相対性理論がそうであるように、それぞれの理論の中では矛盾がなくても、理論同士を融合させようとするとうまくいかなくなり、いつまでたっても最終理論に到達できないという状況になる。

私たちは理性でものごとを考えるときに、そうした数値化できないものを平気で何の躊躇もなく無視し、そういうものだと割り切ってしまっているが、この世界に分離独立して存在するものなど一つもなく、実はそこには膨大な量の情報がある。だから、それを無視した計算から生まれた結果には、危険が潜んでいるのだ。そう考えた時に、やはり感性は重要であると私は思う。ものごとを局所的、あるいは、短期的視野で考える場合には、理性だけで充分なことも多いだろう。しかし大局的、演繹的、長期的視野で考える場合には、感性も併せて働かせなければ、それこそトンデモな結果を招きやすいと私は思う。

だが、現代人はこの感性というものを磨く機会をどんどん失ってきているような気がする。何かおかしいと感じたことでも、感性を働かせる前にネットで検索して答えを見つけようとしてしまう。私の会社での機械を製造する仕事でも、実際に手を動かして作らずともシミュレータを使えばどこに応力や熱が掛かるかといったことが設計段階で解析できる。メンテナンスの仕事も同様だ。「このベアリングはあと1か月で寿命となる」といったことまで、人工知能によって解析できるようになってきた。金槌でコンコン叩いてその音色から交換時期を推察するといったことが不要になったのだ。

もしこのまま、人々が感性よりも理性を上に置いた生き方を続けていったら、人工知能に支配されてもおかしくはないのではないか。歴史学者のハラリ氏が指摘するように本当に無用者階級が発生してしまうのかも知れない。そして、「理論的には正しいけどトンデモな事態」が私たちの社会、そして、人体に今以上に多発する。また、理性というのは、すべての存在を分離させ境界線を明瞭にしてしまうから、「自分と自分以外は別」と考えるようになり、その結果、平和も遠のいてしまうのではないか。長期的で全体の利益を追求しようという人が減ってしまい、短期的で個人的な利益を優先する人ばかりが増えてしまうのではないかと、いろいろなことを心配してしまう。

私は、人間の本質は本来「感性」にあるはずで、その道具として理性を使うべきであるという考えを持っているのだが、世の中ではなぜかそれが逆になっていて、理性が上位に鎮座しているために、結果として「トンデモ」な事態が多発しているように私には見える。理性はよりよい人生、よりよい社会を作っていくために必要なものではあるが、それそのものは、あくまでツールであって、どのような考え方でどのような方向に向かうのかといった本質的な問いに対する答えをくれるのは感性なのである。感性ばかりに頼る必要もないし、理性がダメと言っているわけではない。そのバランスを考えて行動し世界の模範となることが、情緒を大切にしてきた私たち日本人のあるべき姿ではないかと私は思っている。


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