宇宙のしくみ ~無と有のあいだ~ 最終章
第3章 すべては一つの素材からできている
私たちは長い間、「世界を理解するとは細かく分けていくことだ」と信じてきました。細胞を調べ、分子へ、原子へ、素粒子へと進む。この分解の姿勢は科学を大きく前に押し出しました。しかし、どれほど分けても、最後に残る問いは必ず「それは何でできているのか」です。分けるほどに説明できない領域が立ち上がり、世界はむしろ複雑さを帯びて見えてきます。
物理学が最小構造を探る過程で明らかになってきたのは、独立した点の集合ではなく、広がりとしてふるまう世界観でした。境界という境界がにじみ、生物・物質・空間という分類そのものが揺らぎはじめると、「すべては一つのつながりの変化ではないか」という視点が自然に立ち上がってきます。これは、古くから東洋が直感してきた世界観とも深く響き合っています。存在は固定した点ではなく、一瞬ごとに姿を変える流れの表情であるという考え方です。
分けて探ろうとする営みを続けるほど、逆説的に「つながりの深さ」が浮かび上がります。自分と他者、主観と客観といった線引きも、私たちが世界を整理するために便宜的につけた境界にすぎないのではないか。実際にはすべてが一つの広がりの中で揺らぎながら現れ、また消えていく。その広がりが、ある瞬間だけ形を取り、私たちはそれを「有る」と呼んでいるだけなのかもしれません。
こうした視点に立つと、世界はホログラムのようにも見えてきます。どの一部にも全体の気配が宿り、どの存在も宇宙全体のリズムを部分的に映し出しています。私という存在もまた、偶然の産物ではなく、長い時間の積み重ねの中で繰り返し現れてきた流れの「ひとつの表現」にすぎません。私たちの創造行為もまた、個人だけの営みではなく、宇宙そのものが新しい形を求めて動いた結果として現れる出来事だと理解できます。
観察とは、単に外側を確認する行為ではありません。私たちは、自分の内側にある認識の仕組みを通して世界を見ています。つまり、世界を理解しようとする営みは、そのまま「自分という存在の深層を理解する営み」と重なっています。科学と宗教、理性と感性といった分野を隔てていた境界も、この視点に立てば自然と溶け合っていきます。
この理解に至ってから、私の世界の見え方は大きく変わりました。すべてを独立した物としてではなく、ひとつの流れの中に現れる出来事として感じるようになったのです。その瞬間から、重かったものが軽くなり、起こるすべての出来事を肯定的に受け取れるようになりました。世界は決してバラバラではなく、広大な流れの中で互いに影響し合いながら創発を繰り返す場であることが、実感として腑に落ちました。
創発とは、部分の総和を超える性質が全体として立ち上がる現象を指します。宇宙そのものが、この創発の連続だと私は考えています。個々の存在が関わり合うことで、新しい構造や意味が生まれ、そこから次の世界が開いていく。私たち一人ひとりの行為や選択も、その大きな流れの中で生まれる創発の一部です。
宇宙は長い時間をかけて、多様な存在を生み出し続けてきました。その延長線上に、今の私たちがいます。新しいものをつくり、誰かと出会い、世界を更新し続ける。それは宇宙が自らを深く理解しようとする営みの一環でもあります。創造の喜びがこれほど深く感じられるのは、私たちがその大きな流れに参加しているからだと私は思います。
そして私は、こうした視点で生きることこそ、人間に与えられた最大の自由であり、宇宙から託された役割でもあると感じています。






