孤独の時間
人には少なからず、ひとりきりになる孤独の時間があります。これをネガティブに捉えている人は、思いのほか多いのではないでしょうか。私がここで言いたいのは、孤独の時間を「成長の時間」として捉えてみましょうということです。
多くの人は、常に慌ただしい社会の中を生きており「自分は何を求めているのか」などと静かに内観することをなかなかしないものです。その暇もないのが実情かもしれません。その場の「空気」や「規則」と、職場で与えられた「課題」を基軸に生きているのではないでしょうか。自分にやる気があろうとなかろうと、労働時間と休憩時間が決まっており、その中で意思とは関係なく働いている人も中にはいるのかもしれません。しかし、それは本当にあなたが求めていることでしょうか。人には心があり、心は何かしらを求めているはずです。その声は非常に小さいもので、そのときだけは雑音を消さねば到底聞き取れません。自分の心と向き合い、自分の基軸を自らの心に持ってくるためにも、孤独の時間は必要なものなのです。
他者と一緒にいる間、私たちは自分の心を内観するというようなことはあまりできません。なぜなら、同じ場所に相手の心も一緒にあるからです。私たちは、関心のある相手であればあるほど相手の心を覗こうとしてしまいます。このような時間を日常的に過ごしてきている人に「内観」と言っても、はじめはピンときていただけないかもしれません。他者の心を重んじるがために、自分の心の存在をないがしろにしてしまっている人は多いと思います。
私は極端に言えば「孤独」の時に、何をしてきたかでその人の価値が決まるとすら思っています。そこでは、どこに進むのか、いかに進むのか、などをすべて自分で決めます。ひとりなので、自分で自分を奮い立たせたり、逆に癒したりします。これらをするためには、必然的に自らの心と深く向き合うことになるのです。しかし、それはとても大変なことでもあります。なぜなら意志や責任感の強い人であればある程に自分の抱いている劣等感や課題と向き合う事になるからです。ひとりの時は気分を紛らわしてくれる他者がいないので、何もかもを自分で考えて、自分で決めて動く「主体性」が必要となります。
人と人が協力し合うとそこに大きな力が生まれます。そのことを利用して、理念を具現化してゆくのが会社という機関ですが、そこで協力し合う個人が主体性を持っていなければ、ただ責任転換をし合うだけの無意味な集いになってしまうでしょう。個人で動く場合にも、集団で協力し合う場合にも、孤独の時間に養われた主体性は大きな糧となります。
主体性を持ちすぎているがゆえに、人の話しを聞かなくなるという人がたまにいます。しかしその人は主体性どうこう以前に、傲慢であると言えます。自分という存在をクリアに認識できてくると、不思議と他者の存在もクリアに認識できてくるようになるものです。それは自分が、どのようにものを見る人間なのかがわかってくるためです。同様に、人それぞれの立場で違った見方があるという事実にも気がつきます。
自分の外側ではなく、内側に目を向ける事です。そのための「成長の時間」としての、孤独の時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。