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意識はどこに宿るのか

私たちはふつう、意識は自分の頭の中に閉じていると思い込んでいる。身体という境界の内部に「自分」という主体があり、そこで思考し、判断し、感情が生まれる。そんな前提から多くの議論が始まる。

しかし、その前提は本当に揺るぎないものなのだろうか。

私は長年、宇宙は多様な存在が散らばっているように見えて、実態としては「ひとつの連続体」であると考えてきた。その中に生まれる人間も動物も、決して孤立した個体ではなく、より大きな全体の中で立ち上がった「視点」に近い。この考え方を採れば、「自分の意識は自分のものだけ」と思い込む私たちの感覚そのものが、再検討を迫られる。

その手がかりとなるのが、人間が持つ「俯瞰性」である。私たちは、自分の心を自分で眺めることができる。「今、私は何を感じているのだろう」と考える瞬間、自分自身を一段上から見ている。さらには、対話をしている相手の内側を想像し、相手が何を考えているかを感じ取ることもできる。この能力は、意識が固定された一点から動かないものではなく、状況に応じて視点を切り替えたり広げたりできることを示している。

もし意識が脳という器官にのみ依存しているなら、このような「視点の移動」は説明しにくい。ところが現実には、人間の意識は明らかに境界を越えた働きを見せる。自分の体の外で起きていることに「入り込み」、さらにはそこで生じている心理的な動きを追体験することすら可能だ。これは意識が単一の器官に閉じていないという示唆に満ちている。

私は、この広がりをもつ意識の性質は、宇宙そのもののあり方と深く関係していると感じている。宇宙は、多数の個が並んでいるように見えて、実際には相互につながった大きな全体性を持つ。その全体性の中に無数の視点が立ち上がるとき、それぞれに「自分」という感覚が生じる。これが私たちが日常的に呼んでいる「自我」である。

自我は、孤立した個体意識ではない。むしろ、大きな全体の中に浮かび上がった局所的な視点であり、状況によって広がったり、相手の内側を想像したり、自分自身を俯瞰したりと、自由に形を変える。それが可能なのは、自我がもともと「閉じた箱」として成立しているのではなく、より大きな意識の流れの中に置かれているからだと考えている。

この視点に立つと、「意識は個人に完全に属している」という前提のほうが、むしろ例外的な理解に見えてくる。自我とは、大きな連続体から切り出された「局所的な焦点」であり、その焦点を通して世界を見ているだけなのかもしれない。

こう考えると、「自分の意識が自分だけのものだ」という孤立感は静かに溶けていく。私たちは、それぞれが独自の視点を持ってはいるものの、より大きなつながりの中で世界を共有し、響き合っている存在なのだと気づく。

意識は閉じていない。むしろ、広がりを持った現象であり、相互に影響を与え合いながら立ち上がるものなのだ。私たちがときに自分を外側から見ることができるのも、他者の心に深く共感できるのも、その広がりがあるからこそなのだと思う。


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