ネパール政変とカーク銃撃に見る物質主義の限界
先日、ネパールで政権に対する大規模な反政府デモが起きました。アメリカでは、チャーリー・カークが講演のさなかに銃撃され、命を落としたといいます。どちらも日本ではあまり報道されていないようですが、歴史の大きな転換点を感じさせる重大な出来事のように感じます。そして、この二つの出来事は、一見無関係のように見えますが、私には共通の流れがある気がします。
この世界を長く支えてきたのは、理性主義や物質主義の世界観です。人と人、国家と個人、支配者と被支配者というように、あらゆるものの境界を明瞭に切り分け、その上に法律や組織、経済の仕組みを作り、効率と利益の論理で世界を動かそうとしてきました。宇宙や自然、生命という奇跡としか言いようのない神秘神聖なるものをも物質と同列に扱い、世界を管理対象かのように見る態度です。ちょっと乱暴な見方をしてしまっているかもしれませんが、そう感じるのです。
ネパールの動きには、外部の資金や情報が関わっているという話もあります。でも私には、それ以上に、支配の仕組みが寿命を迎えつつあるのではないかと思うのです。乾いた計算から生まれる理性だけでは、人の心はもう動きません。その奥にある「共感」や「つながり」への渇望が、世界を少しずつ動かしているのかもしれません。
カークは、聖書や歴史を手がかりに、学生たちと真正面から向き合ってきたそうです。誰かを打ち負かすためではなく、人が誠実に生きるとは何かを探りながらです。その声は、物質主義の世界が理解できない領域「人は一つの大きなものと繋がっている」という感覚を呼び起こしていたように思います。彼が銃撃されたという事実は、支配する側が「正しく見えてしまう理性のからくり」からの目覚めを恐れている証なのかもしれません。
理性は社会を支えるためには欠かせない道具です。しかし、それだけを絶対視した世界は、いつか必ず、人の奥深い部分と衝突します。その衝突が、いま世界のあちこちで起きているのではないでしょうか。
支配する側は焦りを感じているのでしょう。だからこうした事件が起きるのだと思うのですが、皮肉なことにそれらが繰り返されることで、このシステムは、自ら崩壊するスピードを加速していくように見えます。夜明けは、もうすぐそこまで近づいているのではないでしょうか。