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存在が生まれるしくみ

私たちはふつう、世界は初めから「そこにある」と感じている。だが、その存在感は本来、静止した「もの」ではない。世界が像として立ち上がるためには、目に見えない三つの運動が必要になる。それが「拡散」と「収束」、そして「反転」である。

まず世界には「拡散」がある。働きかけが外へ向かい、広がり、まだ形を持たないまま、多様な可能性がそのまま漂い続ける状態。ここには方向はあるが、意味がまだ定着していない。拡散は開かれた場をつくるが、存在は立ち上がらない。

次に、拡散は「収束」へ向かっていく。広がった働きかけが一点へまとまりはじめる。ばらばらの可能性が、一つの核に引き寄せられ、構造の兆しが芽生える。だが、拡散と収束がただ「行き来」しているだけでは、世界はまだ像にならない。そこにはまだ差異の発火がないからだ。

世界が像として成立するためには、この拡散と収束がひとつの地点で交差し、向きがひっくり返る運動が必要になる。これが「反転」である。

反転とは、単なる折り返しではない。拡散と収束という二つの方向性が交差し、内と外、働きかけと返り、経験とその反映が交わる瞬間だ。この一点で、拡散は収束へ、収束は拡散へと向きを変え、閉じた運動ではなく、新しい生成を引き起こす。ここで初めて、存在と認識が同時に噴き上がる。存在は認識によって成立し、認識は存在が立ち上がることで成立する。両者は双子の現象であり、反転の一点でのみ生まれる。

言葉を話すとき、その構造はさらに明確になる。私たちは言葉を発しながら、同時に自分の声を耳で聞いている。声が外へ向かって「拡散」し、耳で拾われ「収束」し、その二つの流れが交差した一点で意味が生まれる。拡散だけではただの音であり、収束だけでは黙した思考にすぎない。両者が反転することで、「言葉としての出来事」が成立する。発話と理解は、反転が起きることで一体となる。

日常の感覚もまったく同じ構造を帯びている。世界のほうへ開かれる意識の拡散、そこから返ってくる感覚の収束、そしてその二つが交差して向きを変える「点」。その瞬間に、世界は像を結び、私はその世界の中で「私」として立ち上がる。

拡散と収束の往来は、ただの運動ではなく、生成の準備段階である。反転とは、その準備が結実する瞬間であり、存在と認識が一つの出来事として起こる場所である。この瞬間に立ち上がった痕跡こそ、私たちが世界と呼んでいるものの正体なのだ。

存在とは、はじめから固定された物体ではなく、拡散し、収束し、反転し、意味を生み出す「出来事」である。そしてその出来事が起きるたびに、私たちは世界を経験し、世界は私たちという存在をつくりかえる。


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