原理を見る人、事象のみを見る人
私たちの中には物事の「原理を見る人」と「事象のみを見る人」がいます。両者で何が異なるかというと、意識内情報のネットワークと密度がまったく変わってきます。また問題解決の際にも、原理を見ている人は、思わぬ視点から抜本的な改善が行えるようになるでしょう。原理を見ていると、それとまったく関係のないと思われていたあらゆる事柄に意識が通じることが度々あり、それらが根底の同原理によって繋がっていることに気がつくからです。原理というのは、たとえばその事象の始原にあたるものです。それがなければそれが成り立たないような、根本的なものです。その原理をもとにその事象の構造(成り立ち方)はつくられています。
たとえば、仕事に遅刻ばかりしてくる社員がいたとします。その社員の「遅刻」という事象だけを見ている人が上司なら、真っ先に遅刻しないように注意したり、それでも改善されない場合は罰を与えるなどをしてしまうでしょう。こうしたやり方では、遅刻はしなくなるかもしれませんが、同じ原理でまた別の問題が起こることになります。「その社員はなぜ遅刻するのか」逆に「社員が遅刻してくることの何が問題なのか」、これらを考えずに「遅刻はダメな事だから、定時に出社してください」では誰も幸せにはなりません。まずその遅刻してくる社員の心が大切です。というのも本人に自発的な意思が芽生えない限り、いくら外圧的に律したしても、その場しのぎにしかならないからです。また、遅刻することは本当にダメな事なのか?ということも考える必要があります。むしろ時間的束縛から開放してあげることで、能動的に仕事をできるようになるタイプの人もいるかもしれません。
原理に目を向ける人は、既存の社会的価値観に左右されず、その事象の起こった環境の中において、最善の策を見つけ出す事が出来るでしょう。社会全体を見た時に、何が始原かというと人の心です。人の心は何を求めて、また逆に何を遠ざけようとするのか。心は常に変化してゆくものなので、仮に私がここで何かを言い得たとしても、一過的なものになってしまうのかもしれません。それでも、その動きは時代によってある程度の範囲で予測はできるものだと思います。その意味は現代人の心は、先人の心が生み出してきた価値に影響を受けながら、新たな時代をつくってゆくからです。人は尊厳を求めているのではないでしょうか。当たり前と言えばそれまでですが、人にはそうした心の存在が常にあり、あらゆる行いをしてきているように思います。あらためて、その事を前提に置いて事象を見た時、目の前の事が今までとは少し違ったものに見えてくるのではないでしょうか。