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善悪で世界を分ける思考が自らを滅ぼす

最近のイランをめぐる戦争のニュースを見ながら、私はあることを強く感じています。それは、人類が長く信じてきた「善悪の二元論」が、いま限界に近づいているのではないかということです。

中東には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの一神教が生まれ、広がってきました。いずれも唯一絶対の神を信じ、その神の正義を重んじる宗教です。もちろん、これらの宗教の歴史には共存してきた時代もありますし、現在の争いの原因が宗教だけにあるわけではありません。政治や領土、資源など、さまざまな要因が重なっていることは確かです。ただ、それでもなお、人々が自分たちの正義を強く信じ、その基準で世界を見ようとする構造が衝突を生みやすいことは否定できないように思えます。

ここで私は、善と悪というものについて改めて考えてみたいのです。善悪とは、最初から宇宙に存在していた絶対的なものなのでしょうか。むしろそれは、人間が社会をつくり、多くの人が同じ場所で暮らすために生み出してきた一種の秩序や約束事なのではないでしょうか。地域が違えば歴史も文化も異なり、そこにはそれぞれの価値観があります。言い方を変えれば、私たちはそれぞれ異なる世界観の中に生きているとも言えるでしょう。

それにもかかわらず、人はしばしば自分の価値観を普遍的なものだと思い込み、その基準で他者を裁こうとします。そして理解できない相手に対して「悪」や「ならず者」といった言葉で単純化してしまいます。しかし、そのように相手を決めつける側もまた、自分の価値観を絶対視しているという点では同じ構造の中にいるのではないでしょうか。

今回の戦争を見ていると、私はある意味で奇妙な構図を感じます。互いに正義を掲げながら争っている国々は、実は同じ思考の枠組みの中にいるのではないかということです。善と悪をはっきりと分け、その基準で世界を裁こうとする思考です。そう考えると、いま起きている戦争は、善悪二元論で世界を見る人たちの自滅を、彼ら自身が行っている出来事のようにも見えてきます。

私はこうした発想の背景に、世界を固定されたものとして捉える思考があるように感じています。価値観や正義を、まるで動かない物体のように扱ってしまう考え方です。しかし本来、人間の価値観も社会の秩序も、歴史の中で変化し続ける流動的なもののはずです。

般若心経には「不生不滅、不垢不浄、不増不減」という言葉があります。生まれることもなければ死ぬこともない。汚れることもなければ清まることもない。増えることも減ることもない。そこには、世界を固定された実体として見るのではなく、関係の中で現れてくるものとして捉える視点が示されているように思います。

存在するから認識するのではなく、認識するから存在する。もし人類がこのような視点を少しでも持つことができれば、自分の正義を絶対視して他者と対立するという発想から、少しずつ距離を取ることができるのではないでしょうか。真の平和は、軍事的な勝利によってではなく、人間の認識のあり方が変わるところから生まれるのだと私は思っています。


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