腑に落ちることと、理について
社会に限らず、この宇宙全体の事象の成り立ちには、その理(り、ことわり)となっているものがあるように思います。事象が成り立つ場合には、何かしらの理にかなっているということが言えるのではないか、ではその理とはどういったものか、ということを私は考えました。私たちの多くは事象の方をずっと見てきており、この理については、あまり見てこなかったのかもしれません。
私たちが、日常暮らしている中で「腑に落ちる」と感じる瞬間があります。しかし、こうした場合なぜ腑に落ちるのかと問われても、漠然とした言葉しか出てこず、うまくその理由を説明できないということがあるのではないでしょうか。私はここで更に、理に適っているものを見た時に、人は腑に落ちるのではないかという仮説を持ちました。「理にかなっている」とは多くの人がよく使う言葉ですが、その理とは何なのかを考える視点をその人たちが持っているわけではありません。だから腑には落ちても、その理由を説明するまでには至らないのではないでしょうか。
「腑」とは「ふ」と読むとその意味がわかりずらいですが、「はらわた」とも読めます。「腹を割って話す」や「腹が据わる」や「腹が立つ」などの腹と同じ意味で使われてきました。日本には昔より「腑=腹」を、心が宿るところとして考えてきた風習があります。つまり腑に落ちるとは「心に落ちる」とも言い換えられ、心から納得するような心境を表す際に使われるのです。私たちの心が納得するものとは何か、そこに理があるとするならばどんなものなのか。それを考えてみるのも、また一興ではないかと思います。
ここから少しだけ、話しの抽象度を上げますね。私の知見では、1つの事象には相対的な2つ以上の側面が内包されているということが言えます。「認識する」という事象を例に上げますと、「私が認識するからそれが存在する」という側面と「それが存在するから私は認識している」という側面と、背反的な2つの側面が相対的に内包されているということです。他にも、生の始まりは死の誕生を意味し、不幸がある事で幸せを感じ、右足を出した後には左足を出し、コインにも表裏があり、人に男性と女性がいることもこれと同じ原理です。私たちが「1」だと思っている事象には、複数の側面が内包されているのですね。しかしそんな中、多くの人は相対関係にある側面の、どちらかを希求するという過ちを犯してしまいがちです。
その意味は、たとえば人間関係において、ある価値観を肯定した時に、真逆の価値観を否定してしまうということです。「何が正しい」「何が間違っている」そういった識別をしてしまうことで、そこに考えの異なる者同士の争いが必然的に発生し、そして勝った者が正しいという事態が発生してしまいます。この「勝った者が正しい」という理屈が腑に落ちる人などいないのではないでしょうか。それはきっと、理にかなってないからだと思います。どちらの考え方が正しいかということよりも、まずは複数の考えが相対的に存在しているという、総体的な認識と、双方を組み合わせて新たな考えをつくり出すという発展的な姿勢が必要です。価値観の異なる人に出会った時には新たな考えを生み出すチャンスなのです。私たちは「1」の中に内包されている相対的な関係を意識し、総体的な視点を持つ事で互いの違いを認め受け入れあい、昇華してゆくことができます。いかがでしょう、こちらの方が「腑に落ちる」のではないでしょうか。こうして考えてみると、「腑に落ちるもの=理にかなっているもの」とは、その事象に内包された相対性が保たれているものと言えます。しかし、これらの視点を多くの人々がなかなか持てないことにより「どちらが」正しいのか、といったような不毛な争いが起きてしまうのです。私は、それが社会での人間同士の、対立の根源にある問題のような気がしています。
あらゆる事象は相対性を内包しています。これはおそらくそこに「自らを認識したい」といったような、万物事象の根本意思が働いているためです。認識するためには「認識主体」と「認識客体」が必要となり、そこにそれらの相対性が生まれるのだと思います。そしてこの相対性は、新たな相対性(認識主体と認識客体)を生成する事を通して、事象を発展させてゆくのだと思います。これから訪れる知識社会では、今以上に人と人のネットワークで社会が成り立つようになってゆきます。その社会という1つの事象に内包されている、「複数の心」の相対性に気付けているかどうかが、以前にも増して大切になってくるのではないでしょうか。なんら難しいことではありません。私たちは自らの「腑に落ちる」という感覚に素直になることで、よりよい社会をつくっていくことができるのだと思います。