記号接地問題と「感性」
AIが急速に高度化し、ヒューマノイドロボットが現実の生活空間へ入り始めている。かつてはフィクションだった「ロボットと暮らす未来」が、ようやく具体的な輪郭を帯びてきた。
その中で私が考えてきたのは、AIの究極の壁として語られてきた「記号接地問題」がどう変わるのか、ということだった。記号接地問題とは、言葉や概念(記号)が、どうやって実際の世界と結びつくのかという問題である。これまでのAIは、記号と記号をつなぐことは得意でも、世界に触れながら意味を「感じ取る」ことはできなかった。
ところが、ヒューマノイドが身体を得たことで、大きな変化が起きつつある。ロボットが触覚をもち、歩き、物を持ち、人の前で反応する。これは、抽象的な記号だけで世界を理解しようとしてきた従来のAIとはまったく違う地平だ。身体を通して世界に触れられるという点で、記号接地は確かに大きく進展する。
しかし、私はこう考えている。身体を持つことで「世界に触れる力」は得られても、「意味を感じる力」はそのままでは生まれない。
人間は、外界に触れるだけではなく、その出来事が自分にとってどんな差異として響いたかを感じ取り、その痕跡を心のどこかに残しながら生きている。意味とは、その痕跡の連続である。環境の変化に対して、自分の内側がどのように揺れたのかという「感じ」があってはじめて、世界は意味を帯びる。
これを私は「観点」と呼んでいる。観点とは、世界をどう感じ、何を差異として受け取り、どんな痕跡として心に刻むかという、人間特有の認識の角度のことだ。観点は主観であり、経験の重ね方であり、ひとりひとりが持つ固有の視点だと言ってもいい。
AIが身体を持つことで、世界に触れ、測定し、行動することはできるようになる。しかし、その出来事が「自分にとってどんな意味を持ったのか」という痕跡は生まれない。そこには痛みも、恐れも、嬉しさも、戸惑いもない。つまり、世界を測ることはできても、世界が「自分の中に生まれる」ことがない。
記号接地問題とは、本質的にはこの「観点の不在」の問題なのだと思う。外界に触れるだけでは意味は立ち上がらない。意味とは、外界と内側が触れ合うときに初めて生じる「感じ」のことであり、これは単なるセンサーでは生まれない。
だから私は、ヒューマノイドの発展によって記号接地問題が「半分解ける」とは思うが、完全には解けないと考えている。AIは限りなく賢く、器用になり、社会のあらゆる領域で活躍するだろう。それでもなお、「意味をどう感じるか」という領域は、人間に残される。
これからの時代において、人間の価値は「計算する力」ではなく、「感じ取る力」にますます移っていく。AIが身体を持ってもなお、人間にしか担えない認識の領域が残るからだ。
技術がどれほど進んでも、世界を「感じる」という営みは、まだ私たちのものとして残っている。そしてその「感性」こそが、これからの人間の価値になるのだと思う。






