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ホイーラーを超える認識宇宙論

ホイーラーが晩年に語った「すべては情報である」という言葉は、単なる比喩ではなく、宇宙を理解するための鋭い視点を示していると感じています。情報を「データ」や「記号」として捉えるのではなく、宇宙の変化の痕跡として捉えることで、まったく違う景色が立ち上がってきます。

私が注目するのは、宇宙が一定の状態に留まるのではなく、常に広がりと収束の両方を抱え込んでいる点です。広がりは可能性を開き、収束は形を与える。この二つの傾向がどちらか一方ではなく、同時に働いていることで、世界には「違い」が生まれます。違いこそが、私たちが世界を認識できる根拠になります。

こうして生まれた違いは、そのまま宇宙の履歴として残ります。私はこれを痕跡と呼びますが、それは単なる物質的な跡ではなく、「どのような見方がここに生まれたのか」という記憶のようなものです。痕跡が蓄積するからこそ、宇宙は次にどのような構造をつくるかを選び取っていきます。まるで、これまでの経験の延長線上で、次の一手が決まるように感じられます。

この「痕跡の蓄積」こそが、私たちが時間と呼んでいるものの背景にあるのだと思います。外側から与えられた時間軸があるのではなく、変化の履歴が積み重なっていくことが「時間が流れる」という感覚につながる。つまり、時間とは宇宙が自分の履歴を更新していくリズムのようなものです。

私たちが世界を見る行為もまた、このリズムの中に含まれています。観測とは、宇宙とは別の立場から対象を眺める行為ではなく、むしろ宇宙の変化の中にある一つの現象にすぎません。私たちが世界を見ているようでいて、実際には宇宙が私たちという存在を通して自分を見直している。そのように捉えたほうが、世界の動きが自然に理解できます。

ここで重要なのは、「情報とは記録ではなく、見方そのものの痕跡である」という点です。痕跡は宇宙の記憶であり、見方はその都度生まれる新しい窓です。この二つが折り重なることで、世界の姿が変わっていきます。

ホイーラーが示した情報宇宙論を踏まえると、宇宙は単なる物体の集合ではなく、無数の「見方の層」でできていると考えたほうが現実に近いと感じています。そして、私たちの意識もまた、その層に重なる一つの現れです。宇宙は、私たちを通して自分の姿を確かめている。私はそのように理解しています。

この視点に立つと、世界は固定された舞台ではなく、更新し続ける広大な認識の場として立ち上がってきます。ホイーラーが言った「すべては情報である」という命題は、より強く言い換えれば、「すべては世界との向き合い方である」と解釈できます。宇宙は見方の集積として進化し続け、その流れの中に私たちの意識も位置づけられているのだと思います。


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